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出 生 |
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昭和21年、終戦の翌年に私は生まれました。出生地は炭鉱で有名な北海道の美唄市。
樺太からの引揚者だった父と祖父一家は、その郊外の開拓地を買い求め、戦後の国家の復興に貢献しようと農業を始めたのです。
しかし、そこは作物も満足に収穫できない寒冷地。一家は苦労したようです。
やがて、父は農業に見切りをつけ、私を祖父に預けて、近くの町に出て商売を始めます。
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幼年時代 |
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未だ電灯も入らず、夜ともなれば薄暗いランプの生活。風呂は畑の脇を流れる小川の水を沸かして入っていました。一度その小川に落ちて、溺れかかったことがあります。
この生家がどの辺りにあったのか、今となっては全く解りません。夜バスも途絶えた駅からの帰り道、祖母に連れられて、長い時間をかけて(1時間か、2時間か?)帰った記憶があります。かなり駅から離れた処にあったようです。 |
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小学時代 |
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小学校に上がる頃、岩見沢市で商売をしていた、父の元に呼び寄せられました。岩見沢市は札幌から汽車で1時間位旭川寄りに行った、人口5・6万位の農村都市でした。ここで小学校5年生まで暮らしました。
未だ戦後の復興期の貧しい時代でした。路上では子供達が集まっては、何やら遊びに興じていました。
チャンバラ、メンコ、ビー玉、紙芝居…
昭和30年頃になって、ようやく近所の銭湯にテレビが入りました。湯上りに大勢の人が番台の上のテレビを見上げている、そんな光景を覚えています。 |
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転 出 |
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北海道では11月から4月にかけて、半年近くも雪に閉ざされます。光りの不足するこの時期、病弱な私は毎年春先に1週間近くも高熱を発して、寝込んでいました。
そんな私を心配した両親は、昭和32年に一家揃って東京へと引っ越して来ます。
東京に来て閉口したのは、その暑さでした。ひと夏に30℃を超える日なんて2〜3日しかなく、海水浴さえままならない北海道に比べて、連日の猛暑、そして寝苦しい夜。帰巣本能が騒いだ訳でもないでしょうが、東京に来て1〜2年間は、無性に北海道に帰りたくなったのを覚えています。
でも、東京に着てからというものは、一度大学時代に大病を患ったことを除いて、目立って病気をする事もなくなりました。 |
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中学時代 |
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私は戦後の第1次ベビーブームの生まれです。将来の激烈な受験戦争を予感した父は、担任の先生と相談して、病弱な私を近くの付属校に入れる事に決めました。
かくして私は、これ以降自分の意思とは関係なく、中学から高校へ、そしてさらに大学へと、トコロテン式に押し出されるように、前へ進んで行く事となります。 |
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高校時代 |
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入学した学校は、全生徒の出席率が98%を越える、典型的なお坊ちゃん校でした。飼いならされた子羊のように、ひたすらお行儀良く、そして無為に過ぎ去って行く日々。
この時代の記憶は大きく欠落しています。私にとっては灰色の時代でした。
この時貰った6ヵ年精勤賞(インフルエンザで2日間休んだのみ)が、唯一私が生涯で貰った賞と呼べるものです。最近になって免許証の「ゴールドカード」を2回更新していますが、こちらは全くのペーパードライバーなのですから、自慢にもなりません。 |
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大学時代 |
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大学は某私立大学の工学部に進みました。
校舎は、神奈川県の丘の上にありました。裏に農学部の校舎があって、牛が鳴いている、そんな長閑なところでした。ここに片道1時間半をかけて通いました。
大学に入って感じた事は、自由の空気が満ち満ちていることでした。大学は授業を選ぶのも自由なら、出席する事も欠席する事も自由なのです。その代わり、誰も面倒は見てくれません。自分がした事の責任は、自分で取らなければいけないのです。
この「自由」というものが、私はひどく気に入りました。それまでの呪縛から解き放たれたように、私は勉強そっちのけで遊び始めます。パチンコ、ビリヤード…。6ヵ年精勤賞を受賞した自分が、まるで嘘のようです。
おかげで体を壊して(その当時流行らない結核を患ったりしました)1年間留年する羽目になりました。
この頃、各大学では「学園紛争」の嵐が吹き荒れていました。学費を値上げする4年毎に、繰り返される学園封鎖。1年間留年した私は、何と在学中に2度もその学園封鎖を経験したのです。そして試験ができなくなり、2度共レポート提出に切り替わりました。 |
★Site Map↓ |
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そして、現在 |
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名 前 |
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山本 稔 (ヤマモト ミノル) |
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現 住 所 |
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東京都練馬区在住 |
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職 業 |
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東京・吉祥寺で猫の額程の(実際は、もう少し広いが)宝石店を経営中 |
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家 族 |
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妻1人、娘1人、雌犬1匹
これで店に行けば、社員(女子)とお客様とで、私の周囲は女性ばっかし |
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生年月日 |
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昭和21年6月16日 |
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身長・体重 |
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身長:165cm 体重:50kg
体重は15年程前、中年太りで55kgになったのがピークでした。その頃東京中野区に初めて店を出し、開店1週間後に気が付くと、体重が5kg減っていました。そして徐々に回復した11年前に、吉祥寺に今の店を出して、1週間でまた5kg。
今はどうしてもこれ以上は増えません。何度となくダイエットに挑戦して、失敗している妻や娘とは、別世界の人間なのです。 |
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性 格 |
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生真面目。小心者のくせに短気。総じて気難し屋が自他共に一致した見方。
そして、こんな人間と同居して、一昨年銀婚式を迎えた家内は、やはり、努力賞と感謝状ものだと思うのです。 |
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血 液 型 |
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O型 |
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星 座 |
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関心もなく、未だに自分が何座なのか知りません。 |
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趣 味 |
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全くの無趣味。妻によれば、仕事が道楽なのだそうです。 |
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今はまっている事 |
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ホームページ製作 |
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最近特に感じる事 |
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時間の経つことの早さ。小学校に上がって、そして中学・高校。大学を卒業したと思ったら、やがて結婚。子供が生まれて、店を出して…本当にアッという間でした。
そして、時間の経つのが段々早くなって行くように感じられる事も。この年を取るにつれ時間の進行が加速して行くことは、心理学的にも万人に起こる現象のようですが、この調子で行けば、ゴールもすぐそこかと思われます。 |
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愛 読 書 |
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■ロマン・ローラン 「ジャン・クリストフ」
■芥川龍之介 「地獄変」
あくまで、学生時代の愛読書です。社会人になってからは、週刊誌以外読んだ事がありません。 |
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感銘を受けた言葉 |
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上記の「ジャン・クリストフ」の文中にある、「苦しむということは、何と素晴らしいことなのだろう」という言葉。
ちなみに、この小説はベートーベンをモデルにしているといわれていますが、この本を読んで、「絶望を通して歓喜に至れ」というベートーベンの思想、そして音楽をも理解したように思いました。(そのくせ、ベートーベンの曲などまともに聴いたこと事などないのですが) |
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写 真 |
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出来栄えがよろしくありませんので、省かせていただきます。代理に愛犬「ミミ」の写真を… |
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